クロスオーバーの幻想に囚われたメジャー・レーベルやラジオ局からの音楽は、ゲットーの黒人にとってもはやかつてのように自分達の生活に馴染むものではなくなっていた。クロスオーバーが想定するマーケットからは外れたゲットーの黒人社会には音楽の真空状態が発生していた。

「今から考えると、ラップ、もしくはそれに似たものが登場することが予言されてもしかるべきだった。第2 次世界大戦以降10年ごとに、黒人ダンス音楽に対する何らかの新しいアプローチが出現しているのだから。40年代にはリズム&ブルースが、50年代には ロックンロールが、60年代 にはソウル、70年代にはファンクとディスコが、それぞれ登場した。80年代にも何かが現れるはずだった。」
(ネルソン・ジョージ 『リズム&ブルースの死』 ’90年 早川書房)

と、ネルソン・ジョージが指摘しているように、その音楽の真空地帯にまったく新しいスタイルの音楽が生まれたのである。その起源は1970年代、ニュー ヨーク市の5つの区の中でも”アメリカ最悪のスラム街”、”都市腐敗の縮図”、”絶望の街”、”ゲットーの中のゲットー”などと呼ばれることもある、ブロ ンクス区に求められる。  黒人が都会に移ってきた当初から、レコードを持ち寄って開くホームパーティーは手軽な娯楽として一般的であったが、クロスオーバーの時代、ゲットーの音 楽の真空状態を埋めるものとして一層盛んに行われるようになった。当時、ディスコの大流行で一般的になった、レコードプレイヤー2台をミキサーに繋いで曲 を途切れさせることなくかけ続けていく方法がゲットーのホームパーティーにも持ち込まれ、クロスオーバー志向では「黒すぎて」プレイリストから外されるよ うな曲がプレイされていた。(ジェームス・ブラウンがその代表格)

そこにジャマイカからの移民であるクール・ハークというDJが革新をもたらした。

ゲットーの黒人聴衆の好んだダンス向きのブラックミュージックではブレイクと呼ばれる、歌の1番と2番のあいだなどの楽器演奏だけのリズ ミックなパートがあり、その部分にくると1曲の中でもダンサー達が一層激しく盛り上がるのだった。しかし、大抵そのブレイクの部分は短かったので、ハーク は同じ曲のレコードを2枚使って、2台のレコードプレイヤーでそのブレイク・パートだけを交互にかけ続けてブレイクを引き延ばすという方法を編み出し、 ゲットーの聴衆達に熱狂的に受け入れられた。

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ブロンクスを案内し、70年代のパーティの模様を撮ったフィルムを見せるクール・ハーク。(1984年)

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